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問題解決とは、まさしくコンピュータのプログラミングそのものである。
アメリカのコンピュータおたくの親は、頭のよすぎる息子や娘たちにほとんど何もしてやれなかった。
それとは対照的に、Sの父親は息子の知的成長において重要な役割を果たしたのだった。
私が思うに、これは質的にみてウォード・クリーバー最多子育て父親賞に値するほどである。
「父のルールは、自分はすでに答えを知っていると考えることだった」と、Sは回想する。
「あれは、最高の問題解決法だよ。
たとえば私が、『何かをやるには何頭の馬が必要なの〜』と聞くとするよね。
すると、父はすぐに『5頭だ』と答えるんだけど、『私の答えが正しいか間違っているか、言ってごらん』と言い返すわけさ。
その頃になると、こっちも5頭でないのはわかってくる。
すると父は、『5頭じゃないとするとX頭だ。
おまえはこれが解けるかい〜』と言うわけだ。
もちろん、答えられたよ。
5頭が正しいかどうかを検討したことによって、すでに問題が明確になっているからね。
問題を逆向きに検討すると、解答から不安を取り除くことができるわけだ。
その問題が解けないのではないか、少なくとも自分には無理なのではないかという不安をね」父親の助けもあって、Sはハンガリー初の十代のコンピュータ・ハッカーになった。
ここではハッカーを、優れたプログラマを指す昔の意味で使っている。
彼らは自分がプログラミングしているコンピュータに、前向きに取り組んでいた。
最近では意味が変わり、「タイム」や「ニューズ・ウィーク」ではテクノパンクやサイバー強盗をハッカーと呼んでいる。
こうした連中は鋲を打ったブーツでコンピュータシステムを踏みつけてまわり、もっとひどい場合は罪もない他人のデータに足跡をつけてまわる。
少なくとも私にとって、こうした手合いは本当のハッカーではない。
この手の連中の話が知りたければ、ほかの本を読んでいただきたい。
C・Sは、純粋な意味でのハッカーだった。
なにしろ、コンピュータといっしょに寝ていたほどだ。
Sの父は息子のために、大学にあるロシア製のコンピュータ、ウラルVを監視する夜警の仕事を見つけた。
Sが十6歳のときのことである。
ウラルUには11000本の真空管が使われていたが、電源を入れるたびに少なくともそのうちの一本が過熱して燃えつきてしまうような代物だった。
毎日、電源を入れると最初の一時間は、燃えつきた真空管を見つけ出して交換する作業に費やされていた。
真空管の事故を未然に防ぐ最良の方法は、一晩中コンピュータを稼動したままにしておくことである。
そこでS少年はコンピュータといっしょに徹夜する仕事を与えられ、コンピュータを守りながら、コンピュータと遊ぶことになった。
毎晩、この十代の少年は、おそらくハンガリー中のコンピュータ資源の半分を完全に支配できたのである。
ハンガリーのコンピュータ資源の半分というのは、現代の基準でいえばそれほどたいしたものではなかった。
ウラルUは4000バイトのメモリを持ち、8マイクロ秒で二つの数値を加えることができた。
この処理速度と記憶容量は、初期のアップルUに匹敵する。
ウラルHはアップルUよりはやや大きめで、ほぼ一部屋を占領していた。
ユーザーインターフェイスもひどくやっかいな方式だった。
ビデオターミナルやパンチカードではなく、昔盟憐械式キャッシュレジスタに似た入力装置を使っていたのである。
二進数の機械語の0と1をキャッシュレジスタ風段憐械式ボタンで打ち込み、右側にある大きなエンターキーをポンと叩いて一行分のデータとして入力する。
ガチャン、ガチャン、ガチャン、ガチャン、ガチャン、ガチャン、ガチャン、ガチャンーポン!何カ月ものあいだ、そんなふうにしてエンターキーを叩き続けながら、S少年は数百ものランプが点滅するウラルUの内部構造を調べた。
こうして彼は、コンピュータプログラマとしてのキャリアを歩み始めることになったのである。
1966年にはデンマークに移住し、プロのプログラマとして仕事をするようになった。
デンマークのコンピュータは真空管ではなくトランジスタを使っていたが、やはりオペレーティングシステムのないものだった。
翌67年、Sはカリフォルニア大学コンピュータサイエンス学科の学部学生となり、バークレーにあるコントロールデータ社のスーパーコンピュータを使うようになっていた。
まだ二十歳にも達していなかったSだが、ハンガリーでの時間旅行のような経験から始まって、この時点ですでにノイマン型コンピュータの全歴史を生き抜き、そしてプログラムしたことになる。
1970年代に入り、この痩せたハンガリー人は、人種差別をしていないことを示す申し訳程度のスタッフとしてXEPARCに入ることになった。
ここでSが残した最も大きな業績は、アルト用の冊弘&KWT〃型ワードプロセッシング・ソフトウェア「ブラボー」の開発である。
コンピュータサイエンスの研究をするには、PARCは当時としては世界で最もすばらしい場所だった。
しかしSにとって、PARCのエリート主義は決して居心地のよいものではなかった。
彼が育った社会主義国の震を捨てきれなかったのである。
あるいは、捨てたくなかったのかもしれない。
前章で触れたようにB・Tは研究助手というものを信用していなかったので、PARCには助手がいなかった。
スタッフは50人以内でなければならないというTの窓意的な制限を超えずに、常に奇跡的な技術を生み出し続けなければならない。
そのためには、コンピュータ科学研究室(CSL)の全員がそれぞれの分野で最高の人間でなければならないのである。
Sは助手も含めて、もっと多くのスタッフがほしかった。
そして、プログラマとしての生涯で、市場に受け入れられる製品を作りたいと思っていた。
PARCの技術は驚くべき高水準にあったが、同時に驚くほど現実味を欠いていた。
たとえば、1978年の「アダム」というコードネームを持つ、カラーコピー機の開発プロジェクトがある。
これはきわめて先進的なエミッタ結合素子技術を利用した、レーザースキャン方式のカラーコピー機だった。
ところがこの計画は、当時の技術では根本的に実現不可能だった。
なにしろ3年もたったごく最近になって、ようやく実現したものである。
「ムーアの法則」によれば、半導体の記録密度は18カ月ごとに二倍になるという。
これに照らし合わせると、アダムは技術的に実現可能になるほぼ8世代も前に開発にとりかかったことになる。
言わば、十6世紀末に飛行機を発明しようとするようなものだった。
コンピュータにはほかにも収集し、探求すべき知識が山のようにあるのに、なぜアダムのようなプロジェクトにかまけているのだろう。
PARCの純粋主義を罵倒し、その裏をかくことに多くの時間を費やしてきたC・Sにとって、これはまったく理解できなかったことである。
ブラボ−の場合も同じようなものだった。
アルトにはモノクロの美しいビットマップ・ディスプレイがついている。
これを利用したソフトウェアが必要だったが、PARCにはそのプログラムを書く人員を確保する余裕がなかった。
資金の問題ではなく、マンパワーの問題である。
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